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1923年 大正12年の出来事
3月22日は放送記念日です

国際写真情報 大正14年4月号に掲載された写真と解説記事
ラッパ型スピーカで放送を聴くのは犬飼逓信大臣

試験放送を聴く犬飼逓信大臣
放送を聴く 犬飼逓信大臣
試験放送の解説

(1925年 大正14年の出来事)
3月22日は放送記念日です

日本におけるラヂオ放送は大正14年の3月1日に始まったことになっていますが、
実際には複雑怪奇なドラマがあったようです。
(現在は”ラジオ”ですが、当時は”ラヂオ”と書きました)

ラヂオと言えば平成の御世で現在進行中の 「IT革命」 に匹敵する当時の最先端技術であり、
想像を絶する利益を生む可能性のある”ラヂオ放送”を企業化するために、
ドタバタ劇が展開されました。

当時の年鑑に記載された関連記事を整理してドラマの展開を見てみましょう。
参考にしたのは以下の年鑑です。
  朝日年鑑 大正14年版 {大正13年12月 (1924) 発行}
  朝日年鑑 大正15年版 {大正14年12月 (1925) 発行}
  朝日年鑑 大正16年版 {大正15年12月 (1926) 発行}
  毎日年鑑 大正15年版 {大正14年12月 (1925) 発行}
  毎日年鑑 昭和 3年版 {昭和2年12月 (1927) 発行}

尚、日付に多少の差異がみられる記述もありますが、大まかなストーリーを纏めました。

 ☆大正12年12月20日
  逓信省令第8号を以って放送用私設無線電話規則が公布せられ、一般大衆向けの放送
局の開設が可能になる。

 ☆大正13年11月
  逓信省は当初全国を、東京、大阪、名古屋、仙台、廣島、札幌、京城、と7区分し、
一区域に一放送局を許可して事業化させる計画であったが、これまでの出願者数が 
東京;27件 大阪;22件  名古屋;12件と多数に及び、当局を困惑させる。

 ☆大正13年11月25日
  逓信省は東京で許可申請をしている27団体を一つにまとめて東京放送局として
設立許可することに決し、逓信大臣から東京放送局設立の認可が出る。

  同じ頃、大阪では、廿数万円の費用をかけ、WE会社の入力1kWの放送機を購入し、
東京よりも早く電波を出そうと準備を進めていたが、理事長問題が紛糾して放送局の許可が遅れる。

 ☆大正14年1月
  東京放送局に対し仮放送設備の建設許可が出る。 直ちに工事に着手、仮放送を翌年3月1日から
開始の予定で、GEの無線電話機、電力1kW(別の記事では電力500W)を芝浦の高等工藝学校に設置。 
波長は375メートル(8000kHz)

 ☆大正14年1月10日
  名古屋放送局の許可が出る。3月1日から仮放送の予定で準備開始。 コールサインはJOCK 
波長は365メートル(821.917kHz)電力1kW

 ☆大正14年2月26日
  官報で無線電信規則の第14条の但し書きが改正され、アマチュアが組み立てたり改造したような受信機でも、
電波を放射しないものであれば、形式証明を受けた機械同様に使用するこ とが可能となる。
  この処置によってラジオの急速な普及が期待できるようになりました。
又、同日、JOAK 東京放送局の認可が降りる。

 ☆大正14年2月28日
  JOBK 大阪放送局の認可が降りる。 (放送開始の許可ではない)

  同日の午後2時、逓信省の稲田工務課長と荒川技師は東京放送局仮放送所の
設備完成検査に出かけたが、大阪の放送許可が出ないまま、東京の放送開始を許可する事が出来ず、
難癖をつけて不合格とする。
  曰く 「試験の結果、仮放送所の演奏室並びに機械室は不完全である。
不完全な放送をするとラヂオの普及を阻害することになる」

 ☆大正14年3月1日 
  東京放送局で予定していた放送開始は ”試験的放送” に変更して音楽の放送のみとし、
 ”今日の放送開始式は取りやめました” と発表


  同日、名古屋放送局も予定していた仮放送を取り止めています、 詳細は記載が無くて不明ですが、
東京 が不合格になったのと同じ理由だと推定されます。

 ☆大正14年3月3日
  大阪放送局の許可が出る。(別の記事では3月2日になっている)

 ☆大正14年3月10日
  東京放送局は愛宕山の本放送設備の建設開始。 

 ☆大正14年3月19日
  東京放送局は正式に検定証書の交付を受ける

 ☆大正14年3月22日
  東京放送局は、午後9時から ”正式の仮放送” を開始する。(電力500W) 新名常務
  理事の挨拶は 「JOAKこちらは東京放送局であります」 から始まる。

 ☆大正14年5月10日
  大阪は三越百貨店に仮放送所を設け、JOBKのコールサインで試験放送を開始。
  波長は385メートル (779.22kHz) 
 ☆大正14年6月1日   大阪放送局は、午後零時十分から、”正式の仮放送” を開始。   場所は大阪市東区高麗橋の三越百貨店屋上(入力1.5kW)  
☆大正14年7月1日
  名古屋放送局は仮放送を行わず、いきなり本放送開始の予定であったが、  付帯設備の完成が遅れたため延期。  
☆大正14年7月12日
  東京放送局は、愛宕山の本放送設備から本放送を開始。   建坪は125.5坪、延べ床面積264.5坪でコンクリート2階建。   放送機はウエスターン式、及び北村式、入力1.5kWで 内1台は予備である。  
☆大正14年7月15日
  名古屋放送局はマルコニー社製のマルコニー九号放送機で本放送を開始。   コールサインは JOCK 波長は365メートル (821.917kHz)   電力1kW(入力2kW)所在地は名古屋市外學王山  ☆大正14年9月   大阪放送局は本放送設備の敷地すら決まらず、紛糾を続ける。   又、盗聴者を取り締まる為、巡視員を5名採用して巡回させる。
 ☆大正15年5月25日
  東京、大阪、名古屋の3放送局を統一して日本放送協会として誕生させる最初の  相談会が逓信省で開かれる。  
☆大正15年7月19日
 大阪放送局は、全国鉱石化計画の第一歩として10kW放送所の地鎮祭が行われ  る、所在地は大阪府三島郡千里村大字片山、敷地四千坪で、完成予定は昭和3年3月放送機は  英国マルコニー社製  ☆大正15年8月6日   日本放送協会設立者総会を東京丸の内保険協会で開催。  
☆大正15年8月20日
 東京、大阪、名古屋の3放送局の解散と日本放送協会の誕生  この辺の事情は紹介すると長くなってしまうので省略しますが、解散に抵抗する放送局側を、  逓信省が強引に押し切る形で進められたようです。  年鑑の記事には、事態紛糾の大きな理由が、”会長の岩原謙三氏以下62名の理  事中、常務理事以下6名の首脳が逓信省から天下り的に官吏の古手を指名されたためである”  とかなり批判的な筆致で記しています。  ☆大正15年12月1日  大阪中央放送局が完成し、WE社製電力1kW送信機(入力か出力かは不明)で  本放送を開始、所在地は 大阪市天王寺区上本町九丁目   
☆大正15年12月15日
 連日大正天皇のご容体を3放送局から放送し国民一般から感謝される。   (12月25日深夜、大正天皇崩御されるまで)  
☆大正15年12月25日 午前2時40分
 大正天皇崩御の放送を常務理事が正装で行う  ”12月25日宮内省発表 天皇陛下、今12月25日午前1時25分   葉山ご用邸にて崩御あらせられる” 波乱万丈の昭和時代幕開けを告げたのは、当時の最先端器機ラヂオの深夜放送で あった訳です。